如月去る

昨年12月から金曜午前は1時間の体操に通っている。とてもゆるい体操ですが、身体の捻じれをとり、凝り固まった筋肉をほぐしてくれる。そして、元薬剤師でもあり、健康寿命を少しでも伸ばすことを目標として体操を指導してくださっている先生に生活習慣の細かい疑問を投げかけてみたりできる貴重な時間となっている。

さて、2月はひたすら天草陶石で内型成形による楕円皿を成形していたものの、3週目くらいから、検診やら学校の行事やらで、外出が増え、どうもペースが崩れてきた。ペースが崩れる前提で計画は立てているが、それにしても、気持ちが中途半端。いろいろと原因を探るけれど、結局のところ、ただ作っているだけでは、作業が進むことに満たされてくるが、孤独な作業だけに、張り合いがなくなってくる。

体操の帰り、一緒に通っている友人と共に進める制作について話すことで、さまざまな課題が少しずつクリアになってきた。

三十路の手習い—あの菱形の向付の原型を取り組んでから20年。まさか、こんな形で土に触れて癒され、そして、試される日々を過ごすことになるとは想像もしなかった。身体の限界はいつやってくるかわからないと思うからこそ、今できることを粛々とすすめる、そう思うとやるべきことが見えてくる。

バス旅

久しぶりに朝のバスで市街まで来た。本当は、朝から出かけるほどのことはなく、用件は13:30〜なのだが…如何せん、ちょうどよいバスがなく、間に合うためのバスは10:10発という嘆かわしき現実。このバスの運行時間帯は、ほぼ30年前と大きく変わっていないと思う。何年か前にデマンドバスになって、コースが短くなったことを除いて。7時台、10時台、15時台、16時台と1日4便、予約制のデマンドバスは、日常的に使うには、不便である。

不便だと何度も伝えているし、そういう声も多いようだが、改善される見込みもないのが悩ましい。

良いところを伸ばしていけたらとつくづく思う。

帰りのバスに乗る時には何を思うだろう。

行きのバスからの眺め1

行きのバスからの眺め2

帰りのバスに乗り遅れそうになりながら

今日思ったことは、ムリに何かをしようとする必要があるのかな、というコト。

冬はつとめて

朝の寒い時間帯は、暖かい部屋で過ごすようにしている。寒いところは身体もつらいし、エネルギー効率も悪いし、よいことはない。その時間には、ごはんの準備をしたりする。好きだから。そして、プランを資料にしたり、最近は着付の練習に励んでいる。

着付も目的があると、どの着物を着るか、帯などの組合せを考え、実際に着てみるのが楽しくなってくる。今はもっぱら卒業式に向けて、親として訪問着で参列するための着物。いただいた着物で、初めて着るので、なかなか苦戦している。帯の柄がなかなか合わせにくい。柄を合わすことに気を取られて、着付けのポイントがずれてしまって、緩んだり、うまくいかなかったり。

5回目くらいになる今日は、何度かやり直して、やっとまずまずのところ。あとは、帯の柄がもう少し、という思いで、明日以降へ。

そんな、こんなで、こんな朝の時間もいとつきづきし。

青空

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キレイな青空に美しい山並み。この景色に出会えるのがうれしい。この景色は閑かなところから眺めたい。鳥の囀り、風の音、木々が揺れる音、道の滑り具合…日常の中の幸せ。車で走り回って感じることでは見逃してしまうような些細なひとつひとつが大切。そんな小さな価値観を共有できる人たちが周りにいてくれたらと心から思う。砂利道は砂利道でよい。新しいものより、古くて使えるものを直しながら大切にしたい。

いろいろ思う。そして、手を動かす。少しずつ、少しずつ。

今日はケールのサラダを食べよう。

同型問題〜ー

今朝、自分のために、とても満たされた朝食の準備を終えて席に着いた時にふと思いついた変なことを記しておく。

昨日は日中イベントに参加し、夜は初めて北海道に来るという義従兄弟夫妻を招いて、我が家で食事した。幸い天気にも恵まれ、星空も見られて、タクシーを待つ間に焚き火もすることができた。その夜の準備や片付けはほぼ夫がしてくれたので、朝乾いた食器を収納したり、ひと仕事してからの朝食である。

前置きが長くなってしまったが、そういう作業をしている時、今何時か?ということを忘れて無心に作業してしまうことがある。先ほどこの思いつきを残しておこうとスマホをみて、はじめて「ああ、もう8:30か」と時刻を意識した。朝食の準備も含めて1時間以上作業していたことになる。

先日、時間の管理をもっとシビアにしてほしいと言われたので、そのことが引っかかってもいるのですが、何かに集中している時、今何時か?ということが抜けることがある。そして、作業中は小さな時計を近くに置いたり、アラームを設定したり、注意深く意識しないと、容易に時刻を確認できなかったりもする。

そのことを考えていると、ふと、これはお産も一緒だな、と感じた。お産は誰もがいつ産まれるかわからないと思っているから、それがいつになっても許容できるが、例えば、家事に関しては、毎日やって当たり前という潜在意識から、家事をいつ中断し、他の用を足すことは当たり前に可能であり、そのタイミングもいつでも可能と思ってしまう。

短時間の家事(主として子どもへの夕食作り)は、かなり頭を使い、手順を考えながら行う作業。

これは、お産と同じくらい時間の意識を超えてしまうこともあり得ると私は思う。

さあ、朝ごはんを食べてしまおう。