-ジキョウ-初めての出会いは、幼稚園の年長の時、5歳だったはず。難しい字だなぁ、私が利用するバス停の名前でした。定期券にも書かれていました。ピンク色の用紙に紫色の判で押された「自彊」、子ども用の定期券には確か斜めに赤い線が入っていました。そして、国鉄バスからJRバスに変わっても私のバス生活は続きます。
家から自彊へは300〜400m程で、途中に沢が2つあり、バス停に近い沢は沼もあり、鬱蒼としていて、子どもながらに薄気味悪かったと記憶しています。
その後、JRバスは廃線となり、町営バスに変わりました。私も高校生になり、町営バスでは札幌方面に向かうバスに間に合わないため、町内の移動は車での送迎で、バス停まで移動するようになりました。
ところが、高校へ入学した時に、再び「自彊」という言葉に出会うことに。「克己自彊」これが校訓でした。初めて体育館でこの言葉を見たのは、たぶん入学式の時だったはず。今では父母で入学式に来るのは当たり前になりつつあるけれど、当時は父親が入学式に来ている人は少なく、しかも父の髪型は坊主頭に近かったから、恥ずかしかった。高校時代の友人とはキャンプに行ったり、卒業後も一緒に旅に出たり、今でも交流があり、ありがたい存在です。
そして、昨日びっくりするような家の近所で「自彊」という言葉に再会したのでした。
桜を目指して散歩した先に見つけた「16区自彊会館」の門。
昨年10月に町営バスは路線バスがなくなり、すべて予約制のデマンドバスに変わりました。路線バスの時にはバス停(地域の名前)があったけれど、デマンドバスだとバス停という概念がそのうちなくなっていくと思われます。「希望」というバス停もありました。稲作に伴う「稲穂」「稔」「黄金」などもあります。東7線北3ではなく、自彊という名前があるのは歴史そのものを現しているように思います。そういう名前が今後も残っていってほしいと思います。